目鏡橋の上流には、「番所橋」と呼ばれる橋があります。
「江戸時代、城下の入り口に四、城内に三、計七つの番所を設けた。この場所は、城下東の出入り口であり、門を設け、見張りを置き、夜間は大戸を閉じ小戸からのみに制限した。また、西に架かる御影石造りの橋は『番所橋』と呼ばれている。
前面道路は、豊前小倉へ通ずる道で、『秋月街道』と呼ばれ、大名の参勤交代や多くの旅人たちが往来した。
東の石垣の上に建つ武家屋敷は、歌人松田常憲の生家である。彼は歌誌『水甕(みずがめ)』の編集、主宰者であり、明治二十八年(一八九五)から大正三年(一九一四)までの二十年間をこの地で過ごした。
在りし日に 父のひきつる 大ゆみの むらさきの房は 色あせにけり
この歌は、父民衛が祖父佐八郎と共に、弱冠十六歳で秋月党に参戦した当時を偲び、詠んだもので、歌碑が城跡内に建立されている。」(https://niemonbridge.com/fukuoka/amagisi/hasi/bansyo.html)
さらにそのすぐ下流には、石積の水制「底荒籠」があります。この水制は、野鳥川の治水において、大変重要な役割を果たしています。また、河床が複雑な構造となるため、水生生物の棲家となり生物多様性向上にも寄与しています。